Aki_G_Yume_Project’s blog

定年退職後のスローライフを楽しんでいます

少年野球の思い出

1966年、週刊少年マガジンで「巨人の星」の連載がはじまりました。

わたしは小学校2年生でしたが、この伝説のスポ根マンガにハマり、友だちを誘って野球チームをつくりました。チーム名は、星飛雄馬が通っていた高校「星雲高校」のイニシャルである”S”ではじまる名前にしたくて、大学生だった従弟に頼んで、Sからはじまるチーム名を考えてもらい、Small Fairies(小さな妖精)という名前をつけました。今考えると、かなり恥ずかしい名前です💦

ちゃんとユニフォームもそろえ、当時は町内にたくさん空き地(ドラえもんに出てくるような土管のある空き地)があったので、そこで練習していました。もちろん、地面は整備されておらず、雑草やら石ころがゴロゴロしているような場所です。

わたしは、身体も小さかったし、運動神経もいまいちだったので、練習してもうまくなりません。それでも、他のチームと交流して、楽しく野球をしていました。

巨人の星」の影響は大きく、また当時は読売巨人軍がぶっちぎりで強くて1965年から続くV9(9年連続優勝)の真っ最中でしたので、野球ブーム全盛期で、あちこちに少年野球チームができました。

すると、少年野球チームにおとなの監督やコーチがつきはじめました。もちろん、はじめは野球好きのお父さんや高校野球経験者のお兄さんなどが遊び半分で手伝っていたのでしょうが、ほどなく野球に一家言あるような町のおとなたちが出しゃばってきて少年野球を仕切るようになりました。当時は地域の警察署が少年野球大会を開催していて、そこに参加して勝つために、おとなたちが躍起になりはじめたのです。

さあ、ここから何がはじまったかというと、強いチームにするために上手な選手が集められ、わたしのような下手な子どもは練習にも呼ばれなくなったのです。わたしのチームもいつのまにか消滅してしまいました。

野球が「遊び」から「スポーツ」になる過程だったのでしょうが、自分たちの遊びがおとなたちに奪われてしまったように思え、そこから野球をすることをあきらめてしまいました。

 

MLBで活躍する大谷翔平選手が、日本中の小学校にグローブを配って、「野球しようぜ!」といいました。素晴らしいことです。でも、このグローブは子どもたちの手に渡っているのでしょうか?

昨今、河原のスポーツ広場でさえおとなが管理していて、子どもたちだけでは使うこともできなくなってしまったので、おとなの協力がないと練習することもできないのは仕方ないのですが、もっと子どもたちが自由に使える広場があればいいのに、と思います。

おとなたちが仕切らなくても、楽しく野球ができるような環境が、子どもたちの元にもどってくることを願ってやみません。