Aki_G_Yume_Project’s blog

定年退職後のスローライフを楽しんでいます

KAGAYA 星空の世界 天空の贈り物 & 映画鑑賞

本日、横浜みなとみらいで映画鑑賞の後、横浜そごうで開催されている「KAGAYA 星空の世界 天空の贈り物」写真展に行ってきました。

KAGAYA 星空の世界 天空の贈り物 |そごう横浜店|西武・そごう (sogo-seibu.jp)

わたし自身も下手の横好きで天体写真の撮影をしますので、KAGAYAさんの作品群には、いつも感嘆のため息が出てしまいます。

写真展ではめずらしく、館内では写真撮影もOKです。

横浜方面にお越しの節は、ぜひ寄ってみてください。開催は、7月1日までです。

 

ちなみに、本日見た映画は「陰陽師0」です。

ゴジラ-1.0」の山崎貴監督の奥様、佐藤嗣麻子さんの監督作品です。

陰陽師安倍晴明誕生秘話を描いた映画ですが、とにかく映像がきれいでした。

こちらもぜひご鑑賞くださいませ。

ボーイスカウトのこと(3) ボーイスカウトの評価と評判

ボーイスカウトのこと(2)で衝撃的な告白をしたところ、あまり評判が良くなかったので、自主削除しました(反省)

今回の記事では、ボーイスカウトの世間での評判について書いてみたいと思います。ただし、かなり昔のことなので、現在の状況はよく知りません。

 

はじめてボーススカウトの隊員としてキャンプをしたのは、小学5年生のときでした。

場所は、世田谷の等々力渓谷から多摩川に出たあたりの河原です。その頃はまだキャンプができたのですね(今は多分禁止されているかも)。

初めてのキャンプということもありますし、中学生と小学生の集団ですので、いろろなトラブルがありました。

最初の晩に、わたしの班が寝ていたテントの支柱が折れてしまいました。昔のテントは家型で2本の支柱で支えられているので、支柱が折れるというのはたいへんな惨事ではあります。

そこで、班長だった中学生の雷太君と小学5年生のぼくが、支柱に代わるものを探しに夜の旅に出たのです。

等々力近辺の夜の街を「支柱に代わる何か」を探してさまよっていたところ、突然、警察官に呼び止められました。子どもがふたりだけで徘徊?しているのですから、当然ではあります。いわゆる職務質問ですね。

ところが、「ボーイスカウトの夜間訓練中です」(ウソではない)といったところ、なんと「ご苦労様」といって、すぐに解放してくれたのです。制服を着ていたこともありますし、毅然とした態度がよかったのだと思います。

職務質問→すぐ解放」という経験は、別のときにもありました。

このように、当時のボーイスカウトは、特に警察や自衛隊にはそれなりに評価されていたのです。イベントのときの沿道整理や自衛隊駐屯地をお借りしてのキャンプなどで交流があったからだと思います。

 

一方で、世間の評判はというと、ボーイスカウト=右翼というイメージが強かったようです。「一つ、神と国とに誠を尽くし、掟を守ります」と宣誓していたくらいですから、そのような印象を持たれてもしかたありません。

小さい子どもに「あの人たち戦争に行くの?」と言われたこともあります。

まだ戦後10数年でしたので、制服に対する拒否感というのもあったのでしょうね。

 

ボーススカウトの宣誓は、「二つ、何時も他の人々を助けます。 三つ、身体を強くし、心を健やかに、徳を養います」と続くのですが、とかくこの部分は見過ごされてしまいます。

わたしの身体に沁みついた三つの誓いを胸に、これからも日々精進してまいります(これもウソではありません)。

 

孫娘のひとこと(1) Aちゃんお誕生日おめでとう!

GWのキャンプでの出来事。

初めてのファイアースターターで着火に挑戦する、小4のAちゃん。

30分近く奮闘するも、なかなか火がつかず、まわりのおとな達はやきもき。

でも、いっしょうけんめいに挑戦しつづけるAちゃん。

そして、ついに着火に成功! まわりのおとな達も拍手かっさい!

そこで、うちの孫娘2歳が発したのは、「Aちゃん お誕生日おめでとう!」

まわりはみんなきょとんとしていたけど、本人の頭の中では、

火をつける→火がつく→まわりが拍手する→おめでとう=お誕生日おめでとう!

だったようです。

かわいい孫娘のひとことでした。

火つけに挑戦中のAちゃん

 

主夫道を究める(1) 顧客満足と自己満足のせめぎあい(笑)

昨年6月末に定年退職を迎え、そこから本格的に「主夫」をはじめました。

それまでも、テレワークのときなどは料理や掃除などの家事はそこそこやっていましたが、今では「プロの主夫」(生活費もらっているから)として日々精進しております。

 

わたしの師匠でもあるカミさん(上さんor神さん)は、ある意味で「顧客」であり、わたしは顧客の満足を勝ち得るために働いているのだと考えると、高いモチベーションを維持することができる気がしています。

 

しかし、師匠であるカミさんとは、年季の違いというか思想の違いというか流儀の違いというか、わたしのやることにダメ出しをされることがあります。

洗い残しがあるとこれみよがしに洗いなおすとか、洗剤のボトルを使い終わった後に水を入れてつかのまの延命措置をするとか、洗濯ものを干しなおすとか、ほんとうに些細なことです。

たまに、「それは家事ハラだ!」といって抵抗することもありますが、ほぼ100%師匠の言い分が正しいので、わたしは唇をかみしめたがら指導に従っているのです。

 

なかなか師匠であり顧客であるカミさんの満足度を勝ち取ることは難しいのです。

これからも精進の日々が続きます。

 

キャンプに亡くなった親友が帰ってきた!

以前、GWはキャンプで過ごしたとの記事を投稿しました。

GWはキャンプです! - Aki_G_Yume_Project’s blog (hatenablog.com)

 

20数年前にこのキャンプをいっしょに始めた親友H君は、もう10年ほど前に亡くなりました。突然のことで、ご家族はもちろん、友人たちは驚き、悲しみました。

おおらかで、温厚で、頼りがいのある友だちでした。

いまだに亡くなったことが信じられず、毎年キャンプをやるときには、いつか彼がひょっこり戻ってくるのではないか、と本気で信じていました。

数年前から、彼の遺児が立派な青年となり、キャンプに参加してくれるようになりました。そして、今年のキャンプに、H君が生前撮りためていたビデオをもってきてくれたのです。

そこには、在りし日の彼の姿や声が残されていました。

おおぜいの友人とその家族で行ったタケノコ堀りやら、H君が新婚旅行でバルセロナを訪ねてきてくれたときの思い出がたくさん記録されていました。

生前、ラジオのDJをしていたこともあるという美声は健在?でした。

 

H君がキャンプ場に戻ってきたのです! 

 

 

ボーイスカウトのこと(1) ライバルのK君

わたしは、小学校2年でカブスカウト(小2~小4)に入り、ボーイスカウト(小5~中3)、シニアスカウト(高校生)と進みました。大学に入ってからは、リーダー見習いをしていました。

わたしの人生において、ボーイスカウトで学んだことは骨となり肉となって、今でも身体にしみついています。

 

当時、わたしは品川3団(旧東京31団)に所属していましたが、品川2団(旧26団)にK君という、同じ学年のライバルがいました。

品川区のボーイスカウトが集まる運動会があり、50年近く前のことなのでほかにどんな競技があったかおぼえていませんが、K君とは「手旗競争」で競ったと記憶しています。

「手旗競争」とは、いかに正確に、速く手旗信号を送れるかという、ボーイスカウトらしい競技です。記憶が正しければ、わたしとK君は決勝戦で一騎打ちとなりました。勝敗は定かではありませんが、わたしが勝ったと記憶しています(そう思いたい)。

 

その後、偶然ふたりとも同じ高校に進学しました。品川にある某都立高校です。

その高校の校内剣道大会で、K君とまた対戦することになったのです。

彼は上背もあり、しかも剣道の有段者でした。こちらは、小さいときにちょこっと経験しただけの初心者です。

各クラスから5人が参加し、わたしも選手に選ばれました。全員ほぼ初心者です。

もちろんK君も選手に選ばれました。彼のクラスには、他にも有段者がいたと記憶しています。

よりによって、初戦でうちのクラスがK君のクラスと当たってしまいました。しかも、わたしはK君と対戦することになったのです。

彼はちゃんと剣道着を着ていました。わたしは体操着に防具という、なんとも情けない姿です。

彼は有段者、こちらは初心者。本当なら勝てる相手ではありませんが、なんと引き分けてしまいました。正当な剣法VS無手勝流チャンバラ剣法ですが、わたしが防戦一方で彼の攻撃をかわし、時間切れ引き分けというのが真相ではないかと思います。

結局、うちのクラスは、わたし以外は全員敗北という結果でした。

 

わたしが勝手にライバルだと思っているK君とは、数年前に同窓会で再会しました。

歳を重ね、お互い立派なじいさんになっていました。そのときは、ゆっくり話すことができませんでした。

昨年母校の創立100周年記念式典がありましたが、こちらの都合で参加できず、再会はかないませんでした。

またいつか再会して、ゆっくり話したいものです。お互いの記憶を持ち寄って。

このブログを読んでくれているはずのK君、それまでお元気で!

弥栄

ボランティアのこと ー自己満足の記憶

平成・令和を通じて自然災害が多発し、多くの方々が犠牲となり、多くの被災者が生活や仕事の拠点を奪われてしまいました。

災害が発生するたびに、いつも感心するのは、おおぜいのボランティアが現地に赴き、復興支援をすることです。日本人も捨てたものではないと、いつも思います。

わたしも何かお手伝いできることがないかと自問しますが、災害救援のボランティアはハードルが高く、あきらめてしまっています。

 

そこで、ふっと気づいたのですが、自分のこれまでの人生で「ボランティア」って、どれだけやっているのだろう?と気になり、列挙してみることにしました。

 

学童保育のお手伝い(高2~大学卒まで)

ボーイスカウトのリーダー(大学1年~卒業まで)

子ども劇場のリーダー(大学1年~25歳まで)

近所の少年団のリーダー(大学2年~?)

ソフトボールチームのなんちゃってコーチ(息子2人の小1~小6)

息子の中学のソフトテニス部のなんちゃってコーチ(夏合宿限定2回)

横浜市青少年指導員(8年間)

東日本大震災被災者の写真修復(映画「浅田家」で浅田さんがやっていたような活動)

スペイン語の翻訳(現在進行中)

 

こうやって並べてみると、それなりにボランティア活動をしてきたことが思い返されます。

ボランティアなんて、どうせ自己満足だろうと思われがちですが、あくまでも身の丈にあったことを、やれるときにやる、というのが長く続けていくための秘訣なのだと思います。